更新日:令和元年(2019)6月1日

今から265年前の宝暦四年(1754)の作

「曙山記」布施の後藤本家より発見される


「曙山記」 口語訳

 花は吉野に飛鳥山をおもい、月はむさし野に新更科を
慕はさるものなし。昔も今も誠のある人のよしと見たる所ハ
我もなし、後の人もよしとすべし、そこに精神は止まれるなれは也けり。

「中略」

 時に宝暦第四甲戍年弥生上巳の日と共に、山頭に遊ぶ莫法印
阿翁をはじめ野童・草光・草舞のもとめに応じ計毛
鯰毛も、桜の下に酔狂の筆を取て
江都落露画主人、百明房鳥酔みたりに記

曙を称がひおほほせて やまさくら 真阿
あけぼのの目は山に置くさくら也   野童
曙乃中に生るるさくらかな       草光
あけぼのも鐘つき まよふ桜也   草舞
あけぼのへ杭をむけるさくら也    八海

 むかし予が祖のねがい課せし、曙山の記世々筺中にひめ、かてを人々の
すすめによりてこたひ、神宮に棒人と画下に是を写せは、前山
ほのぼのとして、千本のさくら毫端に映し、來理て懐旧頻に
動かすの折から、即事の野聲を得てここに附し侍りぬ

山はなお そのあけぼのと 花さくら 望嶽堂 艸甫

※望嶽堂 艸甫  布施村の名主 後藤善右衛門廣隆 宝暦七年(1757)文政十三年(1830)


後藤善右衛門廣隆(ひろたか)の略歴
・布施弁天中興の協力者、六代目 後藤家証集録編者
・天明三年(
1783)十二月、光廣の長女 伊都の婿となり、家督となる・
・文化七年(1810) 布施弁天上棟式先導役を務める
・文政三年(1820) 七月、布施弁天に関する古文書等を大切に保管して、村人に公開する。
             娘婿の四代目又右衛門誠廣と娘辨(べん)に遺言する
・文政十一年(1828)十月、水戸様より御用道具をお渡しされる。
・文政十一年(1828)十月、水戸藩運用穀宿となる。
・天保元年(1830) 十月十八日、没 七十三歳

「曙山記」
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布施の後藤本家から発見れた「曙山記」額     大正10年頃の「あけぼの山公園の景観」





布施弁天東海寺境内に奉納された「藤月 文学碑:前列右側
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布施弁天東海寺に奉納された句碑(右) 平成二十五年 御開帳記念

「松寿々し 刀弥ぼ大河も 下流れ」
文学碑の裏に「丙辰十月、松、奉納 後藤善右衛門」の名が刻まれている。


「布施の後藤家」

 後藤家の系図によれば、「元和元年(1615)大阪城落城後、布施村に止移す。是を布施後藤家の祖とす」記されている。
今からおよそ400年前である。この後藤家に、名主をしていた又右衛門、善右衛門の名が見られる。

 現在の布施後藤家当主は、初代、後藤駿河ノ守公則から数えて、通算歴代三十代目の後藤敏(家督名:五代目又右衛門)である。
古祖より歴代通算四十二代目にあたる。初代は、家督名八郎で、北条早雲に従い下向し定住するとある。


後藤 敏
 通算歴代三十代目 後藤敏(家督名:五代目又右衛門)