新春を寿ぐ「詩吟と舞いのひと時」初春を詠う
紘洋教場・楓 教場・城学詩吟の会(会長:中西康神)による共演
詩吟というと
テレビの時代劇で、「べんせい~~、しゅくしゅく~~~」ってやっていた場面を思い出す。漢詩を読み下したものに、一種の節をつけ、詠うもの。最近の、詩吟の会では「吟詠:ぎんえい」という、言い方が多く使われている。
「詩」はそれぞれ決められたリズムによってつくられる。それに節をつけることで、さらに味わいの深さが表現される。それに、剣舞、詩舞を伴うこともある。
最近のテレビで、漫才コンビが「あしたに~~、はくていを辞す~~~」て演じていたのを見た。たしか、番組の中で、彼女が、京都府の詩吟大会で優勝したと言っていた。昔は、近所のおじいさんやおばあちゃんが何かを唸っていたのを思い出す。
詩吟とは
詩吟は、漢詩に独特の節をつけて発声し、漢詩の心を最大限に表現する、日本が誇る高雅な伝統芸能です。喉や頭声だけでは吟詠の詩心表現はできない。
胸筋や背筋、横隔膜から腹・腰に至るまで、ほぼ全身の筋肉を共鳴体として使う必要がある。そのためには姿勢、呼吸法、意識を集めるなどの「技術」が必要である。このため、その発声は肉体芸術とも言われている。
漢詩は、長い歴史の洗礼を受けた古典文学です。俳句と同じように、極めて少ない文字で多くの事物や感情、思想が盛り込まれていて、読めば読む程言い知れぬリズム感と、何かジーンと胸を打つ感じがする。
野末陳平著「人生の無常を楽しむ術-40歳からの漢詩」より
詩というものは、人の心を耕しその感情を豊かにするもので、これから養われる情操こそ、人間形成への母体であり、豊かな人生への無限の財産となる。
漢詩を好きになり、そして吟ずることを通じて、詩の心にふれながら貴方の人生を大いに励まして満してくれるものであると言えましょう。
詩吟を具体的には
「はーるーこーおーろーおーの、はーなーのーえーん」と歌うのではなく、「はるゥーー(節調)こーろーのォーー(節調)、はなのォーー(節調)えんンーー(節調)というように、語尾の母音を長く引き、そこで節調を行うことになる。
節調(せっちょう)とは
詩文の素読(朗読)を基本とし、素読の後に特有のメロディーをいう。
詩吟に入れる伴奏について
|
|
|
|
|
コンダクター(トレーナー)と呼ばれる電子邦楽器 |
コンダクター1 |
|
鍵盤配列が陰旋律
(ミファㇻシド) |
|
音程チューナー |
詩吟に伴奏を入れるようになったのは、昭和20年代後半で、昭和初期より大戦までの間は、無伴奏を建前とされていた。しかし、平和な時代の流れと共に、節調も華麗となり、音楽の要素を採り入れた繊細な詩吟となった。今日では、音楽的な洋楽器による演奏が多く用いられるようになってきた。
詩吟大会などの和楽器「尺八・筝(琴)・三味線」
詩吟大会などで尺八、筝(琴)、三味線との生演奏をする場合には、調律の手間を考えたプログラム編成や、進行時間に配慮するため、詩吟関係者と尺八、筝、三味線等について、基礎的な理解をしておく事が大事である。
詩吟のルーツ
詩吟の歴史をたどると、平安中期の頃、漢詩や和歌の宮廷歌謡「朗詠」であると言われている。江戸時代になると、徳川五代将軍綱吉が、湯島に昌平坂学問所を開き、諸藩の秀才を集めて全寮制の教育を行った(現在の東京大学前身)時に、漢詩の講義で、学生達の興味を引くため、漢詩に「ふし」をつけて聞かせたのが今日の詩吟の始まりとなったと言われている。ここで学んだ学生達は、やがて諸藩に戻って、藩校の教師となり、詩吟を広めたと言われている。
また、広瀬淡窓(1782~1856)が私塾「桂林荘」の塾生に歌わせた吟法が広く継承されてきたという説もある。幕末においては、作詩した者が自ら吟ずるなど、非憤慷慨・士気高揚を図り、明治維新の大業遂行の原動力の一翼を担ったとも言われている。
明治時代初期、一部の私塾や藩校において漢詩を素読する際に独特の節を付すことが行なわれたのが、今日の詩吟の直接のルーツである。特に、日田の咸官園や江戸の昌平学において行われていた節調が、多数の門人によって日本全国に広められた。
大正から昭和初期にかけては、木村岳風、山田積善、立川銀涯、初代藤井宗斉といった吟詠家が活動し、現在の諸流派の祖となった。
戦時中は、詩吟は国威高揚に資するものとして奨励されていたが、戦後は、古今の名詩を味わい、美しい日本語をもって表現するという側面が前面にだされるようになった。
このため、素読から始まった詩吟も、精神面に加え、アクセントや音楽性が重視されるようになる。また、健康志向から、腹式呼吸による発声という側面が取り上げられこともある。
|